バブみの誤用を真面目に考える

バブみ

そんな言葉が新たに人々の口から囁かれるようになって久しい昨今、いかがお過ごしでしょうか。

本来は「ママ(※ママとは限らない)に対してバブバブとしたい感覚」、赤ちゃんになりたいというエモを具現化した単語であったはずのこの「バブみ」。

しかし最近では「バブバブとしている」、つまり赤ちゃんっぽい表現として使われるようになってしまい、「バブみの誤用」として一部の識者から嘆かれています。
また、その誤用に対して警察(≒プロ市民)から厳しいコメントが寄せられることも少なくありません。

今日は、何を思ったかちょっとこの単語について真面目に考えてみようと思いました。

似たような言葉から考える。

まず、他の日本語において「〜〜み」という言葉がどのように使われるかを考えてみます。

ぱっと思いつくところとしては、痛み、悲しみといった感覚的なもの。

あとは漢字ですが苦味、酸味といった味に関する単語も「〜〜み」という音ですね。

それとやや変化球ですが、「わかりみ」という単語も似たような構造の単語として思いついたため、一緒に挙げておきます。

どういう言葉?

続いて前項の言葉がどのように成り立っているかを考えてみます。

痛みとか悲しみというのは、「痛いという感覚」や「悲しいという感覚」のことですね。
つまり、形容詞を名詞化したものです。

苦味、酸味に関してはそのまま味ですが、「苦み」とすると痛みとかと同じものになります。
酸味は……すっぱいとかすっぱみとか言いますね。

わかりみは何でしょう。
感覚的にはわかるんですが……。
「わかるという感覚」をそのまま名詞にした、という感じでしょうか。
「わかりみが深い」なんて使い方をすることから、理解できる度合いという意味もありそうです。

それを踏まえて。

そんな感じで改めてバブみという言葉を考えてみます。

前項を踏まえると、バブみという言葉は「バブい」みたいな言葉を名詞化したものである、ということは間違いなさそうですね。

つまり「バブい」という言葉をどう解釈するかによって「バブみ」という言葉の意味が変わるということになります。

具体的には「バブい」(あるいは「バブる」)といった単語があったとして、それをどっちサイドの言葉として感じるかというのがポイントですね。

バブバブとできる感覚バブバブとできる度合い、といった主観的な感覚を持つ人は、本来の「バブみ」を使いこなせる人です。

一方でバブバブしている様子バブバブさせるといった客観的な感覚を持つ人が、誤用と言われている使い方をする人ということになります。

どっちが正しいか?

で、そうやって考えていくと。

日本語的な正しさというのか、「バブい」とか「バブる」という言葉の意味だけで言えば、主観的な感覚になると思うんですよ。

「バブい」を「赤ちゃんをあやしたい」という意味で読むというのはちょっと無理がありますよね?

最近のニュータイプ日本語ユーザーの感覚だとどうかわかりませんけど。

ただいかんせん、そういった日本語の感覚とは無関係に、たぶん大多数の人は「バブバブしたい感覚」なんて持ってないと思うんですよ。

公共の場で取り繕った発言をするならという前提を重ねればなおのこと、少なくとも自分は持っていないということにしたいはず。

で、そんな意識から「バブみ」という言葉に「赤ちゃんをあやす」という意味を重ねてしまい、結果として客観的な意味で使ってしまう。

これがバブみの誤用が濫用されている原因なのではないでしょうか。

どっちも正しいで良くない?

そんなわけで。

やや古い話題ではありますがバブみについて考えてみました。

まともな日本語の感覚に従えば主観的な「バブみ」が正しいけれど、まともな人間の感覚に従えば客観的な「バブみ」が正しい。

そんな悩ましい背景が読み取れました。

感覚的には、どっちも正しいで良いんじゃないかという気もしています。
というのもおそらく勘違いを誘発することはなさそうというのがその理由。

あ、でも、「幼女をママと捉える」文化圏だと勘違いを誘発しやすいかもしれませんね。

まあでもその場合も勘違いしてもらっていた方が何かと都合が良い気もしますし、やっぱりどっちも正しいってことにしておいた方が良さそうです。

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