武器があったら使うでしょ、という話
無料で漫画が読める的なGANMA!にて、一時期期間限定で公開されていた「このゆびとまれ」なる作品。
凄まじいまでに裏表の激しい子役である主人公……の対抗勢力(?)として出ていた男性俳優の語る、人生観的な何かが印象に残っています。
巨乳グラビアアイドルに嫌悪感を示すカメラマン。
しかしそのカメラマン自体は絶賛取材中。
今もまさにカメラを回している最中で、取材対象の男性俳優は「めっちゃ話してるけどいいの?」と尋ねる。
カメラマンは反射的に「あとで消せるからいいんですよ」と答える。
男性俳優は「だよね」と満足げに答える。
「そういうものだ」と割り切って、手持ちの札を当然のような顔をして利用しているという点で、みんな同じである。
みたいな話。
とかく不公平な世の中です。
格差格差と叫ばれたのはいつの頃からだったのか。
ぶっちゃけ社会というものができた当時からだったんでしょうね。
その不満を解消するために利用されたのが、古くは宗教という装置であり製品という概念だったわけで。
現在は資本主義とかその辺のイデオロギーらしいですね。
知らんけど。
でもそんななかで、誰しもが手持ちの手札で勝負して、日々を過ごしてるんでしょうね。
無意識だろうと意識的だろうと。
勝負をしている感覚すらなかろうと。
弱い手札の戦い方
こっちの手札はブタなのに、世の中を見渡すとロイヤルストレートフラッシュやらファイブカード並みに手札のいいやつがゴロゴロしている。
そんな不満を世の中に抱く人もいるでしょう。
僕とか。
でもその時点で「弱い立場を盾にして一方的に好き勝手なことを物申している」わけです。
それって、弱い手札の権利、みたいなものを存分に活用してるとも言えますよね。
賢い使い方とは言い難いですけど。
そもそもを言い出すと
割ときりがないです。
配られるのがトランプだ、なんてことは誰も言ってないしどこにも書かれてなければ決められてもいません。
ある人には太陽のタロットが配られて、今日も地球の気温を操作しているかもしれない。
たった一枚しか手札がない人を見て、かわいそう……とか思ってたらいきなり「ウノ」だとか「クク」だとか宣言されて足元をすくわれることもあるかもしれない。
あなたがババ抜きの要領でダブったカードを捨てる横で、天和していく人だっているかもしれない。
なんならあなたが今しがた捨てた7組のカードで同じことができたのかもしれない。
他の人が様々な役札を握っている一方で自分の手札には「1」としか書かれていなかったとしても、その手札が10枚になったら話は変わってくるかもしれない。
1の目しか出ないサイコロだって、456しか出ないサイコロに勝つかもしれない。
あなたが帝忠を宣言した次の出番、対面が申し訳なさそうに帝忠して手札を空にするかもしれない。
そんなことが世の中には溢れていて、勝手に決めた自分のルールに縛られて、黙々とババ抜きを続けてるみたいな人が多い気がしています。
手札が全てなくなったら上がって、幸せになれると信じて。
なんの話だこれ
自分の武器が最も活用できる場所を探し出して、そこで戦うより他に道はない。
「丸腰で居続けて、戦わないようにする」
そんな、一見すれば戦うこととは正反対の選択肢でさえも、「丸腰を武器にして周囲の戦闘意欲を削ぐ」という戦略であると表現できるのだから。
……ゲームしたくなってきた。