著作権とか引用とか無断転載とか表現の自由とか発信者としてどうすべきかとか

著作権だとか無断転載だとか

いろいろと無断転載についての意識が問われる世の中である。
正直、このサンドバッグにもアウトなものがある。
でも使いたいじゃん……クロマティ高校とか……。

JAS●AC案件に関してはあくまで耳コピであり、『僕はこう聞こえました』というメモである、という言い訳を心の中でしている(なので、特に指摘されても正す気はあんまりない)。
もちろん通用するとは思っていないが。

その辺、自分なりの考えを整理してみる。

引用の線引き

本題。

引用と言う行為についてだ。
これはなかなかにグレーというかなんというか、微妙なところだよなあと感じている。
言い張ったもの勝ちというか。

この線引きってどの辺にあるのだろうと調べてみたりもした。

引用(いんよう、英語:citation, quotation)とは、広義には、自己のオリジナル作品のなかで他人の著作を副次的に紹介する行為、先人の芸術作品やその要素を副次的に自己の作品に取り入れること。報道や批評、研究などの目的で、自らの著作物に他の著作物の一部を採録したり、ポストモダン建築で過去の様式を取り込んだりすることを指す。狭義には、各国の著作権法の引用の要件を満たして行われる合法な無断転載等のこと。

要するに、引用というのは『自分の作品ありきで、説明を省くために他人の作品をパクること』。

自分の作品ありきというのが重要で、それがなければパクリ待ったなしだ。

まとめサイトなどで本文の後に一言二言コメントを添えるのは、この作品部分の極小化に挑戦しているのだと僕は解釈している。
おもちゃ付きのガムか、ガム付きのおもちゃなのか、みたいな話に近い。
まあ、ダメなんだけど……。

ちなみに、日本の引用の要件については……『正当な範囲内であること』だの『引用する必然性があること』だの『主従関係が明確であること』だのと、結構ふわふわしている。
『引用部分が明確であること』みたいなわかりやすいものもあるけど全体的にふわふわ。

前述のまとめサイトに関してはこのうちの主従関係に引っかかるのでアウトのはず。
……と認識していたのだけれど、主従関係は関係ないみたいな判例もあるとかwikipedia先生はおっしゃられている。
正直わけがわからない。

引用は無断転載の一種なのか……。

Wikipedia先生の説明で面白いなと思うのは、引用とは合法の無断転載であるという部分。

無断転載じゃなくて引用だからセーフ!

とか思った記憶は一度や二度じゃ効かないけれど、それを考えると『無断転載はやめてください』と言ってる人の作品を引用するのはやっぱりアウトなのだろうか?
この辺は個人の倫理観に委ねられるところだとは思うけど、その人が嫌がるなら避けたほうが無難なのかなあという気はしないでもない。

ただ、たぶん文句を言われても罪に問われることはないんだろうな。
罰金を設定しているような人もいるけれど、それも引用の範囲内なら法的な正当性は認められないから従う必要なしとかそんな感じになりそう。

最悪裁判沙汰になって、もし万一引用ではないと認められた場合には困ったことになるので、引用する場合は慎重になるべきではあろうけれども。
そも、人様の作品を引用するんだからそれでなくとも慎重になるべきではあるのだけど。

ぶっちゃけケースバイケースだよね。

話を戻して。
結局この引用がどこまで許されるか?
というのは、実際には法律云々よりも、文化というか雰囲気というか、そういうもので決まるのかなあと感じる。

実際のところ、まとめサイトが価値を提供しているのは間違いない。
だからこそなんだかんだで使ってる人は使ってるし、まとめサイトはなくならないわけだし。

クソみたいな人にクソみたいな価値を届けているだけとか言ってはいけない。世界の中央値は平均年収と同様、クソ側に存在するのだから。

とはいえ、役に立てばルールの範囲内かどうかなんてどうでもいいというのは、いかにも日本人的な発想だなあとは思うけれど。

そして流石に漫画村のような、芸術作品の無断転載サイトに関しては潰す方向に動いているようではあるが。

杞憂に終わることも多いよね。

……という話を抜きにしても、自分の行動が世間にどう評価されるかなんて、やってみるまでわからない部分は大きい。

思い出すのは猫を殺して軒先に吊るしていた魔女の話だ。

パクツイがクソほどあって探すの疲れた。

鮭に置き換えれば単なる魚好きの方だし、猫も鮭も食べる文化圏なら大家族なんだろうなで終わりである。

秘薬云々に関してのツッコミも見かけたけど、猫が本当に万病に効く薬になる世界線なら、みんな喜んで猫を殺してるはずだ。

みんなが美味しく食べられる牛や豚や鶏が殺されているのはなんとも思わないわけだし。

恐れず表現していこう。

で、何が言いたいかっていうと、この『そういう文化圏なら当然』というのをそういう文化圏が実際にはなくても保証してくれるのが表現の自由という大義名分なのかなあとか、そういうことである。

たぶん僕たちは、せっかくそういう大義名分があるのだからして、やっぱりそこは恐れずに表現していくのが正義というか、正しいというか、正解というか、良いというか、善いというか……とにかくそういうポジティブな何かなのだろうなあと思うわけですよ。

あるいは、理由付けなんて後からでも十分間に合うんだろうなあというか。
世の中ってそういうもので満ち満ちているよねというか。

そんな感じ。

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