HPTにμ'sを絡めちゃう人は可哀想だなって。(HAPPY PARTY TRAINのあれこれ)
冒頭で「開いた花」「受け取った」「次の夢」なんてフレーズをぶちこんできたために、アンサーソングなんて言われて物議を醸してる(という認識ですが合ってますか?)HAPPY PARTY TRAIN(以下HPT)。
いろいろな人が意見を書いているので、それを見る前に自分なりに思うところを書いておきます。
気持ちはわかる……ほんの少しだけ。
開いた花というのは、もちろんそれ自体が春を連想させる言葉です。
しかし、それをラブライブ!のヲタクが見た場合には、どうでしょうか?
正直なところ、去年のファイナルライブで僕たちが見た巨大なバーミヤン花のステージを想起してしまうのは仕方ないことかな、と思います。
なんでや! μ’s関係ないやろ!
ただ、それを足がかりにしてμ’sのことを考えながらHPTを聴くだとか、あまつさえ『アンサーソング』なんて言葉を使ってしまうというのはどうなんでしょう。
なんというか、『俺はマンボウの話をしているんだ』というフレーズを思い出します。
一周回ってかわいそう。
そんなわけで、僕も最初こそ『果南センターでアンサーソングとかどういうことだよ』なんて苛立ってたんですが、すぐにこう思い直しました。
かわいそうだなあ、と。
さながら、ゾンビの類を哀れむ聖職者のような心境とでも言いましょうか。
そういう人って、いまだにファイナルを引きずっているんでしょうね。
(あるいは、アンサーソングって言いたいだけなのかもしれませんが)
いずれにしろ、純粋にAqoursを楽しむことができないのはかわいそうだなと感じました。
HPT、かっこよさとかわいさとさわやかさが同居した、まさに果南を体現したような曲だというのに。
Aqoursや果南と向き合いながら聴けないとは……。
アンサーソングはありえない。
とりあえず、僕の基本的な立場としては『アンサーソングはありえない』というものです。
根拠としては、『果南はμ’sへの思い入れは特にない』とか『僕光は答えを求めた曲ではない』とか、まあそんな感じですが。
(根拠を示すまでもないと思っているのですが、ある意味では思考停止に陥っているとも言えます。そういう意味では、どうすればアンサーソングと解釈できるのかという理屈には少し興味があります)
『僕たちはひとつの光』に対して仮にアンサーソングが作れるとしても、それはμ’sが作るべきものに他ならず、仮に他のグループが作ったとすればそれはクソリプに他なりません。
あるいは、世間の一部がアンサーソングという言葉を使いたいのと同じように、僕はアンサーソングという言葉が使われるのが我慢ならないのかもしれません。
果南がないがしろにされているように感じるんですよね。
歌詞の咀嚼。
さて、アンサーソングに対しての思うところは上記のとおりです。
アンサーソングという言葉にはアレルギー的な反応を示してしまうんですが、その一方で面白い歌詞だなと思う部分もあるので、その点について書いておきます。
僕光を連想するのはただの感傷なのか?
アンサーソングかどうかという話とは関係なく、冒頭の歌詞が僕光(というかバーミヤン)を想起させるフレーズであるのは事実ですよね。
このフレーズが採用されるにあたり、考えられる経緯は2つあります。
『わざと入れた』か『偶然入った』か。
また、意味に関しても単純に『ある』か『ない』かの2つが考えられます。
よって、背景としてはざっくりと、以下の4パターンに分類できます。
- 『わざと入れたし意味はある』
- 『わざと入れたが意味はない』
- 『偶然入って意味が通ってしまった』
- 『偶然入っただけだから特に意味はない』
正解ということになると、もう作詞した本人に聞くより他にありません。
ので、以下は僕の解釈でしかないのですが、こうじゃないかなあ、というのを書きます。
経緯に関しては、わざと入れたんだろうなあと思っています。
ただし、そう思うのはその方が面白いからでしかなく、根拠はありません。
意味に関しては、半々だと思っています。
どういうことかというと、前述のとおりアンサーソングというのはありえないので、その言葉に別の(アンサー的な)意味は持たせていない。
しかし、『その言葉を選んだ』ということ自体には、『知ってる人だけわかってくれればいい』という遊び心が込められている。
というものです。
言うなれば、作詞をした人がμ’sへの『好き』を少しだけこぼしてしまった……すなわち、千歌がやらかしたのではないかな、と考えています。
とはいえ、そのやらかした結果が世に出ていることを見れば、他メンバーからの待ったがかからなったのは明らかです。
それを考えると、Aqours内部ではこのネタが許容されているということですよね。
となると、外野のヲタクが殊更に過剰反応することではないのかもしれません。
意外なひとが側にいた?
冒頭のフレーズとともに、個人的に気になっているフレーズがあって、それが『意外なひとが側にいた?』です。
迷わず乗ったら PARTY PARTY TRAIN to go!
意外なひとが側にいた?
なんだかこれ、冒頭のフレーズ以上に唐突な感じがするんですよね。
それまで、歌詞にも特に『他人』という描写はなかったですし、PVでも果南が一人旅的な雰囲気を漂わせてますよね。
なので、『意外なひと』って誰だろう、となりました。
いろいろと背景を考えたのですが、PARTYを登山的なパーティ、つまりAqoursのことだと解釈するとよさそうでした。
千歌の誘いに一番に迷わず乗ったら、なんか近所の富豪やら地元の権力者姉妹やら自称地味な転校生やら飛び込みの有力選手やら厨二病の美人やら古い寺の娘さんやらが釣れて、意外すぎるメンバーになったもんだなオイ。
と考えると、意味が通ります。
G’sの記事では何度か、『Aqoursがなかったら3年生組はここまで親しい関係にはならなかった』という話が出てきています。
そのあたりのエピソードとも関連しているように感じました。
ただ、ここの解釈は、果南がAqoursに加入するまでの話がアニメ準拠かG’s準拠かで、だいぶん話が変わってきます。
G’s準拠ならば、果南自身のそういった経験になぞらえて、何が起きるかわからないけど迷わずやってみよう、新しい出会いが待っているから、と歌っていることになります。
が、アニメ準拠では……ちょっと意味がわかりません。
アニメ準拠がありえないという思っているのもあって、脳が考えるのを拒否しているようです。
仮にアンサーする場合。
ちょっとがんばって、アンサーする場合にはどのように考えればよいかを考えてみました。
これを考える際に、気になっていることが1点あります。
アニメ2話で、海の音を聞きに行ったシーンのことです。
μ’sを知らない梨子に対して、果南が「知らないんだ」という反応をしていました。
この世界線では、千歌が果南に対してμ’sネタをのろけるようなこともなさそうなので、果南は自前でその知識を持っていたことになります。
もちろん、どこでその知識を得たのかといえば、2年前にスクールアイドルをしていたときでしょう。
ところで、12話では黒澤姉妹のミーハーな部分が描写されていたものの、μ’sの熱心なファンであるはずの千歌も特に反応していませんでした。
ということは、客観的に見て相当なμ’sのファンであっても、パーソナルデータまでは把握していないということになります。
となれば、他メンバーについても(千歌ほどではなくとも)μ’sが好きである可能性は十分にありえそうです。
……と考えていけば、アニメ版の果南ならばアンサーソング的なものを歌う動機があるのかなん?
(なさそう)
むすび:Aqoursの果南って子がいるんですけどね。
というわけでHPTについて思うところを書きました。
動機だの解釈だのいろいろ書きましたけど、結局、言いたいことはひとつ。
Aqoursっていうアイドルユニットの果南って子がセンターを務めるすごいいい曲があるから聴いてみて、ってことです。
あ、僕はそのすごいいい曲で、すごいいいソロを歌ってる花丸って子の歌声を聴く作業に戻りますのでこれにて。
歌詞について、もう少し考えてみました。
もしよかったらもうちょっとだけお付き合いください。