すごすぎるものってたまに理解できなかったりするよね。ということを理解するために、一度くらいは神戸ビーフを食べるといいよ
とでも思わないと犠牲になった諭吉 x2 が浮かばれない
— 国木田花丸ート (@takoyaki_dead) 26 September 2015
すごいこと=わからないこと
という図式はよく言われることではある。
死後評価される画家、なんてのはてんけてきてきな例と言える。
しかしやっぱり理解できないことは理解できないのが人間の常だ。
とすると、やはりこの図式を日常に落とし込めている人はほとんどいない気がする。
自分がそれを観測した経験といえば、ルールを変える思考法の『ギリギリアウト』の精神だとかか。
あれはなんというか、わりとそれを使いこなしてる感のある事例だった。
あることは実感すべき。
ともあれ、実感できるにしろできないにしろ、その能力が自分にあるにしろないにしろ、ここまで世間に浸透した考え方だ。
兎にも角にもそういうものが存在する、というのは疑いようのないところである。
となれば、それを前提として行動すべき。
なのだが、そう思っただけではそう思うことはできないというのがここまででの話だった。
となれば、どうすればこの考え方を身につけられるだろうか?
この回答として一般的なのは勉強することである。
様々な立場や文化や事例について学ぶことで、『そういう人もいるんだ』と思う心の余裕を育むことができる。
これは確かに効果のある方法だ。
なお日本の底辺で接客業をすることでも同様の効果が得られる。
が、勉強よりももっと手っ取り早い方法がある。
自分で体験することである。
こうべびーふ
というわけで話題が一気にこの高い肉に吹き飛ぶ。
冒頭のツイートがその高い肉のレシートである。(一番安くてこれだった……)
この肉、さぞやうまかったのだろうと思われるかもしれないが、正直なところよくわからなかった。
まず、肉を食べているという感覚がなかった。
どういうことかというと、食感が違った。
柔らかい繊維質の肉の間に、豊富な油と肉汁の詰まっており、噛むとそれが一気に吹き出す。
グルメ漫画などではありがちな表現ではあるが、僕の脳はそれを梨のような食感だと判断していた。
肉と油の味のする梨。
そういう得体の知れない何かを食べているような気分になってしまったのだ。
あまりいい気分ではないのはお察しの通りである。
もちろん、まずいわけではない。
ただ、美味しさよりも先に困惑が来た。
めんつゆとコーヒーを間違えたような感じといえば多少は伝わるだろうか。
伝わらないか。
そんな感じと言われても困るだろうがそんな感じだった。
経験は無駄じゃない……はず
なんの話だっけこれという気分がお互いに出てきたころだろうとは思うが、ともあれそういうことが言いたい。
いや、だってそういうことくらいは言えないと、なんのために肉の味をする梨を食べるために諭吉が二人も殉職したのかわからないではないか。
という皮算用的な何かはあるにしろ、実際のところ、一度くらいはそういう経験をしておくといいんじゃない?ということが言いたかった。
別に神戸ビーフに限った話ではなく。
勉強だけでもいいけど、自分の感覚で理解できないものを体験するというのは自分の見聞を広げるための手っ取り早い方法だよね、と。
まあ、なんというかそういう話。