『恩着せがましい』と『恩知らず』の仕組みを考えてみる。
考える野球
野村克也さんの著書。
彼の野球人生において、当時はかっこ悪いとされていた投手研究をなりふり構わず行い、その結果として一流打者になる、その流れを綴った一冊。
考えるということの意味と意義を感じ取れる本です。
で、その中にこんなエピソードがあります。
投手を研究して、打つ。
それだけでいいと思っていたが、なぜか次第に通用しなくなっていった。
そんなときに、誰かからこう言われる。
『お前が誰の頰を殴ったかなんて忘れてるだろうが、殴られたやつは覚えてるもんだ』
要するに、研究されたことを察して、より見破られにくいサインだったりフォームだったりに変更した。
相手も進化していたわけですね。
これに対して野村さんは、さらに研究し返すことで対策します。
確か『癖というのは出るところには出てしまう』とか言って、球の予測をしていました。
なくて七癖ってやつですね。
もちろん誰にでもできる芸当ではないわけで、それで予測できてしまうというところが、彼の一流たる所以なのでしょうが……。
みたいな話をしたいわけではない
で、タイトルに戻ります。
殴られたやつは覚えてる。
されたことは覚えてる。
これはなかなか、人間の真理というか心理というかをよく捕らえている気がします。
(当てはまらないレベルの成人君子はこんなサンドバッグを眺めに来ることはないでしょうし、なおのこと)
恩知らずとか恩着せがましいとか
その一方で、そうだとすると、しばしば不思議な存在が発生することになります。
恩知らずとか、恩着せがましいとか言われる種類の人たちですね。
これはどのように解釈できるでしょうか?
たとえば奢るという行為について。
奢ってもらったことを忘れる、これは恩知らずと言えます。
逆に奢ってあげたことをいつまでも覚えているとすれば、これは恩着せがましいと言えるでしょう。
そしてこれらを先ほどの話に当てはめると、なかなか恐ろしいことがわかる……気がします。
つまり、奢ってもらったことを忘れるというのは、自分が奢ってもらったという意識がないということになります。
もちろん、奢られた人が奢ってもらって当然と思っているという話ではありません。
ただ、恩知らずなその人にとって、食事代を他人に支払わせたその事象は『する側』なのかもしれないということです。
つまり、『奢らせてあげた』という意識があるということですね。
同様に、奢ってあげたことを忘れないというのも、『された側』としての意識が原因かもしれません。
つまり、(できれば払いたくなかったけど)払わされた……という意識の現れということですね。
自己を省みて
この話を書きながら思い出すのは、僕が参加者の中で唯一の社会人だった飲み会で、他の人の代金を少しだけ肩代わりしたことを今も思い出せるということです。
他の人には千円だけでいいよと言って、それ以上の金額を肩代わりしました。
もちろん、大したことのない金額です。
飲み会の場所が一休(カエルの足とか出てくるアレ)だったというあたりでお察しください。
この話をいつまでも忘れられないのも、僕が恩着せがましい人間なのかなあ……と悲しくなるのですが。
ただ、アレなんですよね。
たぶんこのことを忘れられないのは、その飲み会の日の晩に酔いつぶれて財布をスられたことが原因なんですよ。
と思うことにしてます。
どうせ財布をスられるなら、千円でいいよなんて言わないで全額奢っておけばよかった!
とか本気で思うあたり、恩着せがましいかどうかはともかくとしてケチ臭い人間なのは間違いなさそうです。
まあ、入店した覚えのないカラオケボックスのトイレで目を覚ましたときに比べればどうということのない話なんですけど。