厄介はいないけど、対処する仕組みは完璧。目指すべきはそんなデストピアだ。

オタク。ヲタク。まあどっちでもいいんですけど。
厄介について、定義とか対策とかをいろいろ考えてみました。

前フリ。

以前にこの手の話をしたときに、結構拡散していただけたりしたんですが。

意識調査という名目のエゴサをしていたのですが、なんか今ひとつ、そこの定義にずれを感じたんですよね。

具体的に言うと、こういうことです。

『どこからが厄介?』

厄介の定義。
そう言い換えることもできるでしょう。

ただ前提として、そんなものはないです。

定義できない理由はなんでしょうか。

個人的には以下のような問題から、定義が難しいと考えています。

文化の問題。

自分はラブライブ!サンシャイン!!ばかり追いかけているのでその話題が中心になってしまって申し訳ないのですが。

恋になりたいAQUARIUMという楽曲のキメの部分に『イェッタイガー』という謎の呪文を叫ぶヲタクが以前から問題になっています。

最近だとありとあらゆる楽曲で、ブレイクとみるや入れるようになりつつあり、非常に賑やかなライブになっています。

これにしても、まあ、叫ぶ人の気持ちは理解できないんですけど、そういう現場が存在する以上はそういう人が出てくるのは避けられないのかな……という気持ちはあります。
地下アイドルと呼ばれる文化のことは僕はわからないのであまり言及できないのですが、『叫ぶのが正しい』という文化は確実に存在するようです。

人間を食べる文化圏の人の気持ちを想像できないのと同じように、叫ぶべきと考える人とその選択肢すら思い浮かばない人が歩み寄ることは難しいでしょう。

ただ、そういう『叫ぶ文化』のなかにも、いつでも叫ぶわけではないようで、無闇矢鱈に叫ぶ人がいることを嘆く人もいるようです。
そういう意味では、問題はまた違うところにあるのかもしれません。

感覚の問題。

感覚というのは想像するのが難しいです。
あるいは、想像してみたとしても、本当にその人が感じている感覚を感じることはできません。
当然ですよね。

このあたりのことは、以前に何度か『認知特性』という話題で書いているんですけど。

ヲタクのライブにおける確執はだいたい認知特性で説明できる。|アルパカのサンドバッグ

要するに、同じ音でも気になる人もいれば気にならない人もいる、ってことですね。
想像できるでしょうか?

たとえば集中してると、視界に入ってるのに気付かないとか、呼ばれてるのに気付かない、という経験は皆さんありますよね?

認知特性次第では、かんたんにその状態になれる人がいる一方で、そこまで集中できることは滅多にない人というのが出てきます。
つまり、同じ状況で誰かが叫んだとしても、

『気にしないでライブを楽しめる』人もいるし、

『気になってライブを楽しめない』人もいるわけです。

さらに、その人が集中できるかどうかはそのときの状況や本人の体調にも依存してきます。
このため、話はさらにややこしくなります。

あるときは『これくらい気にしないでいい』と言っていた人が、あるときは『クソすぎる、スタッフ仕事しろ』と言い始める可能性が出てくるわけです。
逆も然り。

このようなことを考えると、厄介の定義が難しいことがわかりますよね。

ただ、そのような感覚の差があることを無視して、苦言を呈している人を『神経質』などと切って捨てるのは、かなり乱暴であるというのも間違いありません

距離の問題。

感覚の問題と近いのですが、距離の問題もあります。
これ、義務教育レベルの知識のはずなのですが、忘れている人はけっこう多いようです。

例えばドームくらいの広い会場なら、反対側の客席で叫んだ人がいても、ほとんど聞こえませんよね。
それをして、「ほとんど叫んでいる人はいなかった。いいライブだった」なんて言ってる人もいます。

でも、そのごくごく一部の叫び声を、真後ろで聞いた人がいるはずですよね?
あなたがいいライブだと感じることができたのは、たまたま席が良かっただけじゃないでしょうか?

厄介の隣でも同じことを言えるのでしょうか。

このように、厄介の影響範囲は距離に影響します。
特定個人の声量だけでは定義することが難しい……ということになります。

対策……できる問題なのか?

いろいろと厄介がなぜ厄介なのかを書いて感じたんですけど。

泣き寝入りするしかないとかいう次元じゃなくて、この問題って本当にどうしようもないんじゃないかなって気がしています。

向こうの主観ではそれをするのが当然で、むしろしない人たちが悪、くらいに思っているでしょう。

最近読んだ『人を動かす』とかいう本にも書いてあったのですが、犯罪者でもその多くは自分のことを悪人だとは思っていないそうです。

免許の提示を求められただけでキレて警官を撃ち殺した人も、『人を傷つけたくないと願う優しい心を持っている』と自称するらしいです。

それを思えば、犯罪ですらない一部の神経質な人にとって迷惑なだけの行為に罪悪感など感じるはずがありませんよね。

騒ぐのはむしろ逆効果?

で、それを思うと逆に、『わざわざこういう迷惑な人がいると吹聴をするのはいいことなのか?』とも思ってしまいます。

『これは迷惑なことなんだ』と思う人を増やしてしまうということにもなりかねません。

最近もあった、『無断RTやめてください』とか、古くはクジラックス先生の模倣犯とか。
注目が集まることで、かえって望まざる結果を引き寄せるという話は昔からあるものです。

もちろん、だから黙ってろって話じゃないですよ。
僕も散々やってますし。
ただ、一時の感情をぶちまけてもあんまりいいことはないのかなあと思うようになった、ということです。

貶すことはしないほうがいい。

先ほども例に挙げた、デール・カーネギーの名著『人を動かす』を読んで、いろいろと思うところがあったんですよね。

基本的に、大衆というのは評価される通りに動くようです。

つまりラブライバーはマナーがいい、そう言われ続ければマナーのいいラブライバーが生まれるわけです。

もちろん例外は必ずあり、それは間違いなく悪目立ちします。

ただ、現実的な問題として、それらを未然に防ぐなんてことはできないんですよね。
となれば、メジャーな意見は『マナーがいい』としておいて、突発的に発生する例外的な不幸には目を瞑る……というのが一番いい、ということになります。

ヲタクができることは、その例外的な不幸の対象にならないことを祈るだというわけです。

なんか気がついたら沼津観光におけるマナーの話になってましたが、ライブでも同じことですね。

ただし、対応は必要。

ただ、突発的な不幸への対応は必要です。
ここがめっちゃ難しいところなんですが。

どういうことかというと、突発的な不幸を放置するとそれが常態化してしまうからです。

割れ窓理論ってやつですね。
掃き溜めにはゴミが集まるともいいます。

ただそこは悲しいかな、管理者の仕事なんですよね。

ライブならスタッフ。
観光地なら、店の人。

あるいは、警察です。

ただの客が対応できる問題でもなければ、対応すべき問題でもありません。

でもその一方で、予防や通報は推奨される。
いや、何言ってんだこいつって感じですけども。

予防すれども防止せず。

通報すれども吹聴せず。

ただし、予防や通報のノウハウは共有すべし。

そんな感じでしょうか?
非常に高度なバランス感覚が要求されるような気がします。

言い回しをパクって気付きましたけど、アイドルってけっこう『君臨すれども統治せず』な感じがありますね。

自覚と啓蒙を促すのが最善?

上記を踏まえて、厄介を憎むヲタクができることを考えてみましょう。

ライブの感想としては、厄介のことには触れない。
最高のライブだったと考える。
これにより、『マナーのいい客』という自覚を植えつけていく。

その一方で、理想のライブの形を発信していく。
あくまでコールには様々な考え方がある、と前置きした上で、自分の考える理想がなぜ理想なのかを伝える努力をする。
これにより、『ライブのあるべき姿』を啓蒙していく。

さらに、仮に問題となる行動が見受けられた場合は、即座にスタッフへ働きかける。
その後、スタッフがどのような対応をとったにせよ、『なにかあったの?』という態度を取り続ける。
これにより、無駄な悪評の拡大を防ぐ。

デストピアじゃねーか。

これ、実現したら、『犯罪者がいないと誰もが言うけど、犯罪者の定義とか犯罪者を捕らえる仕組みだけは異様に整っている街』みたいなデストピア感ありますね。
キノに出てきそう。

おかしいな、そういうのを目指しているつもりはないんですけど。
もう少し考えてみます。

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