そうは言ってもお給料はどこも変わらないし、やりがいも大事だよね。
人生というものに対する幸福の感じ方に対する調査をいろいろと見ると、人生というのは「いかにして都合のいい勘違いができるか」ということに尽きるようである。
先日読んだGIVE&TAKEという本で、人間は同化と異化を同時に味わうことで幸せを感じられるという話があった。
もう少し噛み砕くと、同化とは何かに所属したいという思いで、異化というのは特別でありたいという思いである。
これらは一見、矛盾しているようにも感じられる。
しかしこの矛盾する要素が同時に満たされることが、幸福の条件であるらしい。
たとえば昔の日本なら、『自分がいないと回らない組織』などはその筆頭だった……のかもしれない。
会社しかり、家族しかり。
所属しつつ、自分が特別だと感じることができる。
しかし今の日本ではどうだろう。
似たような生活様式の貧弱な個性(笑)であふれた社会は、自分が欠けたとしても問題ないことを突きつけてくる。
その後に似たような形をしている誰かがあてがわれる。
自分亡き後も、何の問題もなく回っていくことが容易に想像できてしまう。
『自分じゃなくても誰かがやってくれる』が溢れている。
そして残念なことに、それは往々にして真理であったりする。
そこに引き合いに出されるのは田舎暮らしであり、『自分がやらないと誰もやらない』なんて言葉である。
だが、究極的にはそれも勘違いでしかない。
別にそれは自分でなければできないわけではなく、たとえば何らかの条件が変われば……たとえば報酬がつくとか、そんな変化があればやりたいと手を上げる人はいくらでもいるだろう。
今後状況が変化して、田舎暮らしをする人が増えれば、田舎であったとしても競争が激しくなる分野だって出てくるかもしれない。(なお、だいぶここには嘘がある)
だが現実にはそんなことはない。
誰も得しない作業に報酬がつくこともなければ、自分のほかにそれをやりたがる人もいないわけで、この勘違いは正される機会がなく、本人に幸せを提供する。
これらのことが悪いというつもりはない。
ましてや、田舎暮らしをしている人が勘違いヤローだなどというつもりは毛頭ない。
ここから学べることがあるはずだ、ということを言いたいのだ。
1つは、やっぱり幸せというのは自分の心がけ次第であること。
自分にしかできないことに取り組む、少なくともそういう勘違いをして自分を騙してでも取り組める何かがあるのは、幸せなことなのだ。
その結果として搾取されて体を壊すとか、死んでしまうとか、そういう状況になっていることからは目を瞑るとしてだ。
それは別の問題である。
使命感とかやりがいとか呼ばれるものを満たして喜びを覚える。
それ自体はすばらしいことだ。
そのはずだ。
こんな単純なことを言葉を重ねて強調しなければならない仕組みが存在することこそが不幸なのだ。
2つめは、そういう勘違いを積極的に肯定してくれる環境という要素はやっぱり強いということ。
ドクターコトーが孤島で医者をしていなければならない理由は別にどこにもないが、孤島で医者をしている以上はそいつはドクターコトーという特別な存在になる。
お前じゃなきゃダメなんだ、というのは他に星の数ほどの女性がいる状況では大して役に立たないが、物理的に他に選択肢がない状況では人を奮い立たせる可能性がある。
もちろん人によってはプレッシャーでつぶれる可能性はあるのだが。
やっぱりそれも別の話だ。
その辺のことを忘れずに、良い塩梅を探って、今日も都会でラットレースという名の鉄骨渡りで元気に消耗していきたい。