愚者は経験に学ぶ。ってことは、やってみなきゃわかんないってことだ。

愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ。

これを思い返しては、賢者になれたらいいなあ、なんて思うのだけれど、結局のところ、どうしようもなく愚者な自分である。
あるいは同じ失敗をすることもあり、愚者ですらないんじゃねーの、なんて思ったりもする。

頭の片隅では、賢者になることを目指すよりも、愚者であることを認めて、経験から学んでいこうとするほうが有益なのでは、なんて思うこともある。

愚者未満だからまずは愚者を目指そう。

賢者であることを諦めて愚者であることを認めるというのは、経験から学ぶことに意識を向けるってことだ。
この言葉は、経験すること=学ぶことではない、ということを言っているのかもしれない。
現状、同じ失敗をしていることを考えると、それは正しいのだろう。
同じ失敗をするというのは、つまり、経験から学んでいないということだ。

学ぼうとする姿勢があって、初めて愚者か賢者か、というスタートラインに立てる。
学ぼうという姿勢すらなければ、愚者でも賢者でもない。
つまりは、人間未満ということか。

学ぶってことは行動が伴う。

あと大事な点としては、賢者は経験からも学んでるってことだろう。
ともすれば、『本当に賢ければ、本を読んでれば大丈夫』なんて解釈をしてしまいかねない。
が、どう考えてもノウハウコレクターは賢者ではない。
学ぶというのは、それを使うことを前提とした過程の段階のうちのひとつであるはずだ。

たとえば学校なら、社会に出ることを目的としてさまざまな科目や、人付き合いを学ぶ。
自動車教習所なら、車に乗ることを目的として道交法や運転を学ぶ。

行動する速度ならむしろ愚者の方が早い?

そんなわけで、愚者や賢者が学んでいるのは、その先に行動があるからだ。
結局、どこかで実践とか、行動だとか、そういう次の一歩ありきの話であり、それがなければ学んでいるとは言えず、愚者でもなく、賢者でもなく、人間未満だ。

そんな感じで考えていくと、むしろ愚者は経験から学んでいるということはすでに経験、行動しているということがわかる。、
賢者が歴史から学んでいる間にとっとと実践しているわけだ。
むしろやってみないとわからないことの方が多い昨今、愚者の方が有利なのかも。

なんてことを思った。

むすび:賢者を貶めるつもりはないが。

というわけで最低限経験から学ばず、何も考えずに日々を過ごしているのは愚者未満であるという話だ。
自分はどうやら人間ですらなかったようなので、これから頑張って愚者にまでは登りつめたいと考えている。

どうせ賢者ならすでに頭角を表している。
そうでないということは自分は凡夫であるということに他ならない。
愚者の強みは考えてもわからないということだ。
それを、悩むことで自らその強みをドブに捨てているようでは、とうていマシな人生を送ることはできないだろう。

ところで、愚者であることを受け入れずとも、歴史から学ぶという方法を理解することができれば、賢者に近付けることになるのではないか、なんて考える自分もいる。
そしてこれは、確かにやり方としてはありうるというか、可能性を感じるのは事実だ。
だが、これからの時代は、これまでのどの歴史よりも変化に富んだものになるのは間違いない。
そのときに、下手に歴史を紐解こうとする賢者よりも、行動を重ねて知見を深められる愚者のほうがうまくいく。

あるいはその変化の訓戒を歴史に見出せないという応用力のなさこそが、愚者の愚者たる所以かもしれないが。

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