世の中にはいろんな人がいて、だから無駄なことなんてない
ネタを葬り去るのをやめようと思った
最近、ちょっと考え方を変えることにしました。
いままで、「こんなこと書いてもしょーがないよな・・・」なんて思って、消してしまったネタが結構あったんです。
でも、そういうことを考えるのはやめて、とりあえず形を与えて出してみることにしました。
というのは、以下のような理由によるものです。
変えようと思った理由
例によって・・・ではあるのですが、3つほど理由があります。2つかも。
1. ネタは成仏させないと頭の中でよみがえる
こんなん考えたってしゃーない、と思う一方で、もったいないと思う自分がおりました。
そういう自分に拾ってもらうことを期待してか、単純に僕が貧乏性なためか、どんなにくだらない考えでも、忘れるまでにだいぶん時間がかかります。
そしてその間、僕の頭の片隅に、使わないと決めたネタが長らく居座り続けることになるわけです。
これはとてもよろしくない。
すっぱり忘れるか、忘れられるように供養してやる必要があります。
残念ながら、忘れたいことを忘れるなんて器用なことはできません。
それなら、一回ネタを形としてまとめてやって、満足して成仏してくれることを待つ方がいいや、と思いました。
変に頭に居座り続けられるよりも、一瞬クソみたいな記事がトップに上がっている方がまし・・・
かどうかは、非常に判断に困るところではありますが、長期的に見てきっとよろしかろうと判断しました。
クソみたいなネタをまともな記事にする能力が鍛えられるやもわかりませんし。
とりあえず、自分を出涸らしにすることを優先するという判断です。
2. しょーがないと思っているのは自分だけの可能性がある
これが一番大きな理由かもしれんのでなんで2番目に置いたのか疑問ではありますが、大きな理由です。
僕は結構調べ物が好きなのと、健康系の情報に興味があるので、いろいろと健康法を調べていたりします。
そんなことを繰り返していると、ある程度、その文脈における常識が身についてくるわけですね。
でも、それは、そういうことをする習慣のない人にとっては常識ではないわけです。
たとえば以前に書いた冬の朝に起きる方法。
文章の巧拙はさておき、個人的には『内容が当たり前すぎる・・・』と感じていました。
ただ、以前この話を友人として、めっちゃ参考になった、的な反応をされました。
もしかしたらお世辞だったのかもしれない・・・と思う一方で、こうも思いました。
『文脈が違えば、同じ情報でもまったく別の価値を持つのかもしれない』と。
つまり、同じ趣味を持っており、健康に問題を抱えているものの、それを調べるということをしない人はきっといるはず。
そういう人は、巷にあふれる健康を目的とした情報サイトを見ることはないでしょう。
ですが、同じ趣味を持つ僕のサイトには訪れるかもしれません。
そして、そこで自分が『そういえばこれ、自分も思い当たるなー』という、普段はまったく気にしない、健康に関する記事を読むかもしれません。
そうすれば、内容は専門のサイトに劣っていたとしても、僕のサイトは専門のサイトにはなかった価値を提供できたことになります。
そういう可能性があることを考えれば、『僕が書くまでもない』なんてネタは存在しないということになります。
とにかく書きまくろうと思った
もう一つ理由があって、しょーもないと思うことも書いていかないとネタが追いつかないという打算があります。
何かを生み出す訓練は、誰も彼も、どこのサイトも、最初は『質より量!』と言っていますからね。
質は後からついてくるというのは、実際その通りだと思います。
その訓練をしたいと思うなら、書くことを選り好みしている暇はありません・・・少なくとも、自分には。
ならば、ネタがしょーもないからと言って頭から抜け落ちるまでゆっくり眺めている暇なんてありません。
積極的につかまえて、ネタを根絶やす勢いで書いていこうと思いました。
もっとたくさん書きたいです。
どうすればいいだろう。
ところでこの話は何が言いたいかよくわからなかったので見切り発車で書き始めました。
メリットも3つくらい上げて、だから僕は今後はこうします。
万が一、ネタがないと悩む方の参考になったりしたら幸せです。
とか適当に結んでおけばよかったと書き終わってから思い至りました。