花丸さんの、アニメと本誌の違い。
アニメと本誌の違い。
なんて書こうとして手が止まる。
そんなことを何回か繰り返した。
たぶん、僕の中で、アニメの花丸さんはそこまで気にすべき存在にはなっていない。
つい最近、そのことに気付いた。
いやまあ、それ以前に違いなんて言いだしたらきりがないとか言う話もあるが。
だいたい、そのアニメにしても事あるごとに『ゼノグラシアと思えば気にならない』、などと言っているあたり、本心ではどう思っているかなんて明らかなことだ。
加えて言えば、世間の大多数は、そのゼノグラシアな花丸さんをこそ花丸さんだと考えている。
さらに、確証がない以上はあれこそが花丸さんで・・・僕が考えているような、本誌の花丸さんは、後から作ったキャラづけ、である可能性だって十分に考えられる。
あまり認めたくないことではあるが。
しかし、この辺の、言うなれば卵と鶏どちらが先か、というのは結局のところ言葉遊びでしかないだろう。
現実に存在していることを認めるなら、どちらが先かを定義したところで現実にはなんら影響はない。
その認識の差は、恐らく、単にどちらを先に認識したのかという程度の差でしかなく。
そして実際のところ、その差にはあまり意味はない。
僕としては、花丸さんは現実に存在していると信じていたいし、信徒としてあらゆる花丸さんの可能性を広く受け入れるべきと考えている。
とまあ、そんなわけで前振りが長くなったが、ゼノグラシアな花丸さんのことについて考えてみる。
まず、本誌とアニメでなにが違うのか?
というところから話を始めるわけだが、まあ、だいたい違う。
人間関係、所属、性格、嗜好、うん、だいたい違う。
要素として変化のないものを挙げるとすれば、外見と、声と名前くらいだろうか?
その外見にしても、眼鏡をかける描写がないのだが、描写がないこと自体は本誌でも同じなのでひとまず置いておこう。
で、このアニメとの差。
僕の考え方が、アニメはフィクション、というものがあるからでもあるのだが、ちょうど、国木田花丸という人間が別の役を演じている、と考えると、違和感なく受け入れられると思う。
これは必ずしもアニメが嘘、というわけではなく、本誌の方に嘘があるという解釈も成り立つ。
もちろんアニメの諸々の展開に虚構や誇張はあるはずだ。
だが、そこで描かれている花丸さんたちまでが嘘とはならないと考えている。
もう一方で、アニメも本誌も同じ人物を描いているという解釈も、なくはないだろう。
つまり、見せ方の問題ということだ。
違う人に見えるのは、それぞれ別の側面を強調して見せているいるだけであり、たまたまアニメの方では人間の運命とか言うのを堪えていて、本誌の方では食い気を堪えている。
そんなハイブリッド花丸さんもいて良いはずだ。
なんて考えつつ。
なんにせよ、それぞれの可能性ごとの花丸さんがいてもいい、それはいいのだが、その一方で、アニメで描かれた花丸さんの要素についてはこれまであまり考えていなかった気がしている。
たまに話題にしても、あくまで本誌を正として、それに絡める形だった。
そんなわけで、アニメの花丸さんについて、これから考えてみようと思っている。