表現力の制御

※今回の内容はあくまで僕個人の思想に基づくものです。

 あなたの中には、あなたの久保ユリカがいます。

 あなたの久保ユリカを大事にしてください。


インスタを見ていた。


久保ユリカの、法事で親戚が集まった、という文が添えられた、4枚の顔写真。


見て、衝撃を受けた。


かわいい。




というのはさておき、衝撃を受けたというのは、静止画に耐えうる程度に表現力が抑えられていた点だ。


久保ユリカの真髄は、動画コンテンツにあると僕は思っている。


彼女の表現力は、声はもちろんだが、立ち居振る舞いにもその多くが発揮されている。


表現力が過剰なのだ。


よく久保ユリカの変顔をツイッターで見かけるのも、彼女の過剰な表現力ゆえに、振れ幅が広いからだと思う。


振れ幅が広がれば、その分途中経過も増えるからだ。



動画以外のコンテンツで人気が出たものは、何らかの要因で表現力が抑えられている。


グラビアアイドル時代、つまり楢原ゆりか時代は、多少精神をやっていたこともあり、本来の表現力が発揮しきれずに、それがちょうど良い範囲に収まったのだと思う。


あるいは楢原ゆりかを演じることが、ちょうど良い表現力につながったのかもしれない。


演じる、といっているのは、要するに「グラビア時代は目が死んでる」と言われるアレだ。


僕は「こっちの楢原」と呼んでいる。


どうにも久保ユリカのなかで、言葉を選ばずに言うならば、エロ専用のペルソナがあるように思うのだ。


さておき。


声優では、声だけという制限が、かえって良い影響をもたらしたのではないだろうか。



本人をして、事務所の写真が「なんかいらっとする」と言わしめる程度には、彼女の表現力は自分でも制御しきれずに、環境などの要因に依存して、良くも悪くもなる・・・


と、思っていた。


だが、インスタである。


「全力の笑顔ではない」という不自然さはあるが、静止画としては適正な表現力になっている。


過剰な表現力を制御する方法を身に付けようとしてる。


そう感じる。


まあ、たぶん思い過ごしなのだが。



※要するに久保ユリカがモデルとしてはいまいちって言ってるように感じるかもしれませんが、ここまでの彼女の遍歴をもとに考えて収まりのよさそうな結論を導くとそうなるね、ってだけです。

 僕個人としてはいろんな服を楽しそうに着てる久保ユリカも大好きです。


※久保ユリカとしての静止画コンテンツの至宝、インジョルシカという例外が存在することに気付いた。

 なんであれはすばらしいんだろう。

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