つい言ってしまう「○○みたい」「○○に似てる」を回避したい…したくない?

そんな話。

ヒリつく人もいるやーつ

まずは一般論ですが。

作品に対する評価として「○○(他作品の類似品)のようだ」というものがあります。
この評価は褒める場合と貶す場合、どちらでも使われます。

「○○みたい」という評価の後に、「だからクソ」とか「だから神」とかいう言葉や意味が続くわけです。

そもそもこの評価方法自体、後段が略されがちで、「それは褒めてんの?馬鹿にしてんの?」といった、どっちの意味かわからない状態になりやすいところがあります。

ただそれ以上に「褒めていることは相手にも伝わるんだけどもにょらせてしまう」という問題があって、今回はそこに絞って考えるつもりです。

最近まで無縁だったんですけど

このアルパカも最近まではあんまり身に覚えはなくて、むしろ軽率に何かに喩えがちでした。

汚いなんちゃら、とかのたとえはちょいちょいサンドバッグでもネタにしています。

しかしどういうわけか直近でヒリつく場面が増えてきました。

具体的には推し武道のあーやで、やれ矢澤だとかつくしだとか、軽率に他作品のロリツインテを並べて「似てる!好き!」みたいなことを言ってるアカウントを見かけると「お前はあーやのことを何もわかっちゃいない」とか「お前にあーやの何がわかるんだ」とか言いたくなるというもの。

流石に行動に移してはいませんが

思うに、あれですね。

Aqoursの家虎は邪魔だと思うけど別のグループだと特に何も感じないといった現象と同じで。
相手に対するこだわり、独占欲に近い好意が影響しているものと思われます。

避けたいなと思いました

で、自分で体験してみると、これがなかなかにヒリつきまして。

なるべくなら避けたいなと思ったんですよね。

そんな風に思う理由は色々あるのでしょうし、あるいは受け取る側にも問題はあるなんて言説も見かけます。

実際のところ、被害妄想のような側面もあるにはあるでしょう。

たとえば直接言っていない相手からどうこう言われる義理はないはずです。
あからさまな誹謗中傷だったりしたらもちろん別でしょうけども。

でも逆に、自分のかけた言葉が原因で傷付いた人に対して「あなたが傷付くのはあなたの心が弱いから」と言い張れてしまうのは……ちょっと開き直りが過ぎるというか、サイコパスみが強すぎない?という気もします。

別に相手はメンタルの面倒を見てあげるべき患者や生徒ではないのですから、傷付けてしまった相手に対する言葉は第一にごめんなさいであるべきですし、そのあとは「もう言わないようにしよう」と思うのが自然ですよね。

どこぞの質問サイトで自分は悪くないと主張するのではなく。

そんなわけで、あんまり言わないようにするためにはどうしたらいいか?
というのを考えてみます。

避けるための代案

「似てる」とか「っぽい」という評価が相手を傷付ける……まではいかないにしても、もにょらせる場合があると認めた上で。

じゃあどうするか?

といえば、二択しかありません。

「そもそも声をかけない」か「別の言葉をかけるか」です。

そもそも声をかけない

というのはいささか極端かもしれませんが、意外と大事なように思います。

土台、「ナントカっぽい」という感想しか出てこない時点で自分にとっては「その他」でしかないんですよね。
声をかけるに値しない作品である可能性は高いわけです。

クリエイターは褒めて伸ばそう!という風潮の世の中ですし素通りするのは忍びないという気持ちはあるかもしれません。

でも興味のないものに無理して声をかけてもお互いに虚しいだけです。
それよりは本当に興味が持てるものに注力するほうが良いでしょう。

別の言葉をかける

もうひとつは「似てる」という言葉を使わないというもの。

じゃあどうするかというと、これまた二択で抽象化するか具体化するしかありません。

抽象化というのは言葉を大きくするということ。
似てるからという言葉を飲み込んで、単純に「好きです!」とだけ伝えることですね。

まあこれはこれで「裏の意味があるのでは……?」とか思われそうではありますが、それに関しては書いてないことをとやかく言われる筋合いはないですよね。
というかもはや防ぎようがないですから気にしても仕方ありません。

逆に具体化するというのは、似ていると思った部分をより詳しく表現するということですね。
「誰々に似ている」ではなくて、なぜ似てると思ったのか、どこが似ていると思ったのか。

それがわかりさえすれば、単純にそこが良い、そこが好きなどと伝えれば良いだけです。
逆にそこがわからなければ似てるというのは気の迷いかもしれません。

あるいはその程度の手間すら惜しんでしまうというのも、やっぱり自分にとっては大した作品ではないということなんでしょうね。

自分の言葉で伝える

上記は「似てる」と思ったときにそれを伝えないためにどうするかという話なので、それ以外にも理想論は存在します。

そもそも似てるとかではなく、ニュートラルに評価できるならそれに越したことはないですよね。

あるいは似ていると思ったとしてもそれは脇に置いて、そこからもう一歩踏み込んで、また違った軸の感想を伝えることだって不可能ではないはず。

いずれにしても、既存の何かを引き合いに出すのではなく自分の言葉で感想を伝えられたら、それに越したことはないですよね。

まあ結局のところ

似ているという表現は馬鹿にする目的でも使われることがあるので赤の他人に対して使うことは避けるのがベター、ということなんでしょうね。

仮に言っても大丈夫な場面があるとすれば、相手がそれを求めているとか、受け入れる心構えができているときくらいじゃないですかね。

信頼関係が出来上がっている相手から、馬鹿にするとか揶揄する目的ではないと信じられる状況で言われれば、受け止め方も流石に違ってくるはず。

逆に言えばそれくらい無遠慮な比較というものは存外にセンシティブな話題なのかもしれません。

もちろん「自分は気にしない、なにかに似てるとかでも何でも良いから言ってほしい」みたいな人もいるでしょうし、そういう人にはそういう配慮はかえって物足りないかもしれませんね。
そしたらもう自分から言ってくしかないでしょうね。
主張しさえすれば、もともとコストの低い評価方法ですから、言ってもらうことは難しくないはずです。

そういえばなんでヒリつくんだろう

というわけでざっくりと「似ている」の代わりにできる評価方法とかその周りのことを考えてみましたが、話を終わりにかかろうとしたところでそもそも何でもにょるんだろうということが気になってきました。

いろいろな原因があるような気がするのでこれは改めて考えてみようと思います。

どっとはらい。

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