元いた場所にしがみついてちゃ、環境を変えることはできないんだよね。
※無職ポエムです
環境を変えろって言うけれど
環境を変えれば人は変わる。
と言う話をよく聞く世の中である。
これは僕も真実だと思う。
でも、環境を変えるってなんだ?
って考えた時に、なかなか難しいというのも事実である。
具体的には、自分の話になるが。
去年、退職したついでに高知に1ヶ月ほど高飛びした。
そこで得た結論。
生活する場所を一月程度変えただけじゃ環境を変えたことにはならない。
まあ、当たり前だ。
1ヶ月後には東京に戻る気満々なのだから。
ときたま、移住する気はあったのだろうかと自問してしまうことがある。
色々な手前、あった……と言いたいところではあるのだけれど。
現実的な線を考えると、やっぱりなかったんだろうなと思う。
現実的な線(笑)
現実的な線、というのはなかなかに曲者だ。
これが何かといえば、具体的には、僕が社畜生活を通して得た常識(と信じ込んでいるもの)である。
今まで散々恨み言を吐き出して来た会社勤めではあるが、実際のところはその収入がなければ生活は立ち行かない。
口ではなんと言おうとも、やっぱり精神の深いところでは会社勤めというものに依存しているわけだ。
そして、その常識を前提に線を引いてしまう。
こんな肉体労働するくらいなら満員電車に揺られて会社勤めするのもそう変わらないのでは?
時給換算での効率は倍以上違うぞ?
みたいに。
しがみついてるんだよね
これじゃあ環境なんて変えようにも変えられない。
別の環境に片方の手を伸ばしながら、もう片方の手ではちゃっかりと今の環境を握りしめているんだから。
……まあ、無職だから実際にはもう握れてないんだけど、それはそれとして。
新しい環境側の人も、両手を離して飛び込んでくる人は受け入れられるだろうけど、片方の手だけ伸ばしてる人はどうしようもないだろう。
下手すれば、向こうがあちらの環境から落ちてしまう。
溺れてる人を助ける時はぐったりするまで待つ
ここまで書いて、溺れてる人の助け方を思い出した。
ご存知の人も多いと思うけど、溺れてる人は元気なうちに助けてはいけない。
変に暴れる元気があると、こっちも一緒に沈んでしまうからである。
暴れる元気が無くなって、ぐったりしたところで助けだすのが良いらしい。
これもなんというか、上の話に共通するものを感じる。
死ぬことと見つけたり?
とはいえ完全に手放しで新たな環境に飛び移るというのが怖いのはその通りである。
『死ぬかもしれないじゃないか』
と言われれば、そうですねとしか言いようがない。
武士道じゃあるまいし、死ぬことと見つけられる人なんてそうそういるもんじゃない。
結局のところ、そうやって環境を変えられる人は、死ぬことを見つけたわけじゃなくて、単純に考えてないだけなんだろうなあと感じる。
『なんとかなるでしょw』とばかりに気軽に飛び移ろうとして、でもちょっと距離が足りなくて。
落ちそうになって、『あ、やべ死ぬ』ってなったときに、とっさに向こう側の人から手を差し伸べてもらえる。
環境を変えるって、そういうことなんだろう。
溺れるものは藁をも掴む
そんなことわざを思い出した。
確かに溺れているときは助かろうと必死で、藁でもなんでも掴みに行ってしまうものだろう。
でも冷静に考えれば、溺れてる人を助けてくれるのは藁なんかじゃなくて人だ。
それを踏まえれば、藁なんかにすがりついている暇がある人は、一回力を抜いてみるのもいいのかもしれない。
世の中は助け合いでできているのだから。
たまには助けてもらえずに死ぬ人もいるかもしれない。
でも大丈夫だ。
助けてもらえないというのはいないのと同義だから。
だから助けてもらえずに死ぬ人なんていない。
世の中は助け合いでできているって、たぶん、そういうことなんだろうと思う。
話題が変なところに不時着した。
無職ポエム終わり。