機械に取って代わられるであろう『耐えられる』タンクタイプの社畜はどう生きるべきか
たとえば満員電車。
乗れない人に、乗れる人は『この程度のことで』と笑う。
ここで、乗れる人は、満員電車への耐性が高いってこと。
どうにもこの国ではそういうことが多い。
学校耐性がないから。
会社耐性がないから。
社会耐性がないから。
対人耐性がないから。
長らく『欲しがりません勝つまでは』だの『24時間働けますか』だのと、狂ったコピーを掲げていた代償だろう。
耐えられることを美徳と感じる感性が、日本人には備わっている。
個人的にも
対人耐性くらいはつけておきたいものである……などと、ときたま思うことはあるのだがそのモチベーションが長続きすることはない。
心の底では必要ないと確信しているのだろう。
それはそれとして、社会は急速に変わりつつある。
具体的には代替手段を増やす方向へと。
たとえばフレックスや在宅勤務などはわかりやすいところだ。
これらの制度によって、満員電車に適性があることへの価値は低くなってきている。
これからの時代
耐久性が高いことは命取りとなりうる。
耐久スキルというのは結局のところ感覚の鈍化である。
耐久スキルがあれば、耐久スキルがない人が受けるとダメージになる刺激を無視できる。
それはひとえに、感覚が鈍いからだ。
感覚が鈍いことの致命的なのは、感覚があることを理解できなくなることである。
極端な話ではあるが、たとえば痛みを感じない人、というのはときたまいるらしいが、だいたい早死にするらしい。
痛みを感じるなら踏みとどまれるはずのところで踏みとどまれないからである。
第五層の上昇負荷のようなものか。
これは茹でガエルの話にも通じるところがある。
だんだんと温度が高くなる鍋に気付かず、耐えてしまう。
本人には耐えているという自覚もないだろう。
しかし、いざ耐えられない温度になった時にはすでに茹で上がり、逃げられなくなっている……ザ・エンドってね。
耐久スキルがある人はこれと同じだ。
ある程度のダメージは耐えられるがゆえに、致命傷になるまで逃げられない。
逃げる必要があるとすら認識できない。
タンクタイプの生き方
とまあ、いろいろと耐える生き方をディスってきたわけだが、かくいう僕もそういう向きの一員である。
いわゆるタンクタイプ。
耐えることが好きというわけではない。
なにしろ無職だ。
とはいいつつも、割とダメージへの耐性がある。
『好きを武器にして生きろ』と言う耳触りの良い話を聞いても、嫌いなことを耐える方が楽だなあなんて思ってしまう。
もしかすると僕含め、『嫌いなことに耐える』ことが好きという人種は一定数いるのかもしれない。
そんな人はどうやって生きるべきなのだろう。
耐えられるということがまだかろうじて価値のあるうちに稼いでおくのか。
いさぎよく別の武器を探すべきなのか。
どうしたものだろうか。
とりあえず
いろいろバイトをやってみているのだけど。
自分でも意外なほどに、作業内容によって感じる負荷が変わった。
対人系統は負荷がすごいとか。
アパレルは興味がなさすぎて辛いとか。
本はめっちゃ楽しいとか。
まあ考えるまでもなく当たり前なんだけど。
経験しないとわからないもんだ。
この辺りを利用して、自分にとって限りなく負荷の低い条件での労働でお金を稼ぐ。
というのは、割とアリな選択肢なのかもしれない。