「ひとを〈嫌う〉ということ」を読んだ。
嫌いについて書かれた本
この著者の作品は初めて読んだ。自分も相当ねじくれていると自負していたのだけれども、上には上がいるんだなあ、という思いだ。
そんなねじくれた・・・本人曰くに「ずれた」人が、人を嫌うこと、嫌われることを受け入れて、徹底的に向き合った。その末に得た結論が、いろいろと書かれている。人間関係に苦手意識のある自分には示唆に富んだ本だった。同じように感じる人は、一度読んでおくとよさそう。
もちろん、ここに書かれているような「嫌いをごまかさずに向き合って、さらっと嫌い合う」ような関係は、そう簡単には実現できないだろう。でもだからこそ、早めにマシな方向に転換することが必要だと思う。有限な時間を、少しでも長く訓練の時間にあてるために。
嫌うことは自然なこと
本書では、世間的には排斥されるためにあるような嫌いという感情を、『生きていれば当然起こりうること』として自然に受け入れる。また、そのための方法というか、考え方が説明されている。
特に理由もなく誰かを好きになるということがあるというのは、納得しやすいはず。でも、その反対に、特に理由もなく誰かを嫌いになることはあるか? あるのだ。いくら世間的に悪いことだとされていても。好きになることはあるのに、その逆がないなんて、それこそおかしい。
嫌いを冷ます
また、好きの逆ならば、という理屈でこんなことも書かれている。好きというのはつまり誤解である。この誤解はそのうちにとけて、好きはその時点で落ち着く。ヲタクは推しを変える。
ということは、嫌いも同様に、そのうちに落ち着くということだ。好きを冷ます方法はいろいろと存在する。冷ますというくらいには、冷静になることが方法として挙げられる。嫌いも、その原因やら、嫌いに至る因果関係やらを冷静に見つめることで、冷ますことができる。
もちろん、いくら冷静になったとしても好きなものが嫌いになるわけではないように、嫌いも別に好きになったりはしない。だが、自分の中の嫌いに振り回されるような事態は避けられる。
好きに振り回されるのなら、少なくとも本人は幸せだろう(良し悪しはさておき)。だが、嫌いに振り回されるのは全員が不幸になる。本人も、嫌いの対象も、周囲の人すらも。
無用な争いは避けるべきだ。だが、それはあくまで無用なという前提付きだ。本書では次のようにも書かれている。
嫌いをごまかさない
さらっと嫌うためには、ごまかさないことが必要になる。ここが自分にとっては難所だと感じる部分だった。ごまかさない、つまり嫌なことは嫌だときちんと伝える、ということだ。
別に争いと言っても、取っ組み合いの喧嘩をするわけではない。だが、自分の嫌いを押し殺して、愛想笑いで追従するわけでもない。それは我慢をしているということだし、それはいつか決壊するからだ。
誠実に生きるというのは正しいとされている。僕もそう思う。だが、自分の嫌いを押し殺して、いつか耐えられなくなるという事実から目を背けて(それはその場しのぎと同義だ)人と付き合うこと。果たしてそれは誠実だろうか?
僕は今のところ、これに対する答えを持っていない。
むすび:いろいろ書いてはみたものの。
本書で書かれていることを自分なりに説明しようとしてみた。だが、多分素直に受け入れきれておらず、自分の解釈が入ってしまっているなあと感じた。
話の流れとしては、人を嫌うというのは自然なことで、自分が誰かを嫌うのは当然。もちろん、誰かが自分を嫌うのも当然。そう考えて、誰かの嫌いを感じても「まあそういうこともあるよな」とか受け流せればいいよね。自分の嫌いについても、それに振り回されることなく、冷静に付き合っていけたらいいよね。そんな感じだった。
ええと。
まとまらないのですが、この辺が僕の限界です。まとまった内容が知りたい方はぜひ読んでみてください。