表音文字、表意文字、表音音、表意音
表音文字、表意文字というのは聞いたことがあるだろうか。
たとえばヨーロッパ圏の言語では、何かしらの単語があればそれがそのまま発音を表す。
英語は少しばかり頭がいいことをアピールしたい連中がいじりまわしたせいで例外が多いが。
ともあれ、本来 a という文字には a という音を表す以外の意味はない。たぶん。
だが、どういった単語によく登場するか、どういった状況で発音するか・・・といったことに意味を見出してしまうのが人間である。
人を地面に埋めると雨が降るとか、そういうのと同じやつだ。
それよりは多少は理屈めいているとは思うが。
とにかく、aとかpとかlとかeという文字は、赤い木の実を表す単語に使われているから赤っぽいイメージだとか、そういうことを思うわけだ。
実際にはこんなに単純ではなく、自分でも由来がわからない程度に複雑なパターンの集積によって作られるわけだが。
その一方で、漢字というのは表意文字と言われる。
もともと何かを表す図のようなものがあり、それが文字となっている。
例外は多々ある。
ただ、音だけでイメージすることもあるが、文字の形だけでもイメージを作っているわけだ。
漢字以外では、ひらがな、かたかなというのが存在する。
こいつらは、どちらかと言えば表音文字だ。
元となる表意文字が存在し、そこから音だけを抽出したものである。
だが、日本語はひらがなやかたかなだけでは成立しない言語になっている。
少なくとも、意味が読み取りにくいということは、大体のネイティブジャパニーズならば同意できると思う。
『氷のうや濡れタオル』を一発で『ひょうのうや ぬれたおる』と読み取れる人間は少ないはずだ。
漢字の後に続く『の』は所持を表す助詞であることが多く、その場合の『氷』を『ヒョウ』と読むことは少ない。
そのため、大多数の人間は『こおりの うやぬれたおる』と誤読してしまう。
また、氷嚢の『嚢』を単独で『ノウ』と読める人は少ないと思う。
だが、『氷嚢』と単語になっていれば、『氷の後になんか読めない難しい字が続く単語』だとわかる。
また、『後に濡れタオルが続くことから、同様に体を冷やすための道具』であることも判断できる。
その結果、今までの人生経験からそれに該当する単語を検索し、『ヒョウノウ』という読みを抽出できる。
もちろん、それまでに『ヒョウノウ』という言葉を知らずに生きてきた人ならば、このような芸当はできない。
だが、そういう人が『氷のう』という単語を見たときに、『ヒョウノウ』と読めるかどうかは甚だ疑問だ。
もっと言えば『熱を出したときに頭に当てる氷水を入れたアレ』を思い浮かべることは期待できないだろう。
『ヒョウノウ』を知らないんだから。
さて、話がだいぶ脇道にそれたが、要するに日本語は漢字の形や文脈から読み取れる情報が多い、ということだ。
逆に言えば、読み取らなければいけない情報が多いということでもある。
ここで、人間が一度に読み取れる情報量は同じだとしてみる。
すると、日本語を読み取る際には、漢字の形や文脈から多くの情報を読み取らねばならない。
ということは、全体の情報量に対して、音の情報量が占める割合は、他の言語よりも相対的に少ないと言える。
これがどういうことかというと、日本人という日本語ネイティブの民族は、音から情報を読み取る感覚があまり養われていないということになるのではなかろうか。
さて、さらにタイトルに戻り、今度は表音音と表意音という見慣れない単語について触れる。
なんとなくつけてしまった単語だが、要するに表音音は音の周波数と体で感じる刺激そのもので、表意音はそこから感じる意味やイメージだ。
音に意味を感じるのはどういうときだろうか。
一つは、音と事象が関連付けされた場合だ。
たとえばコンビニ入店時の音。
ファーストフード店のポテトができたときの音。
携帯からけたたましく鳴り響く不吉な音。
一連のメロディと、何らかの事象が結びつくことによって、メロディを聞くだけでその事象を思い出すことができる。
パブロフの犬というやつだ。
また、ドレミファソラシド、という音階も、生まれてから今までに聞いてきた音楽の結果として養われてきている感覚である。
これは音と音が関連付けられていることになる。
もう一つは、コード・・・和音に対して感じるイメージだ。
音同士が同時に鳴った際に、明るかったり、暗かったり、気持ち良かったり、気持ち悪かったりと、とにかく何らかのイメージを抱くことがある。
これに関しては、なぜ何かを感じるのかは僕はよく知らない。
似たような音が鳴るシーンがあり、それと関連付けられたイメージが想起されるのかもしれない。
たぶん、そのイメージの具体的な部分は、人それぞれの人生経験に由来するのだろうとは思う。
さて、このメロディやコードに感じる意味には、共通点がある。
音の延長上に意味があるということだ。
どちらも、音がつながったり、重なったりすることで意味が生じている。
これは、ヨーロッパ圏の言語に通じるものがある。
アルファベットという音を表す文字がつながって、意味を生じている。
もちろん文字のまとまりとしての意味はあるが、それも表音文字としてのアルファベットの延長上である。
そこには、文字の形といった情報はない。
先の例で挙げた、人間が読み取れる情報量が同じという話。
これを表音文字の言語に適用してみると、どうだろう。
音から読み取れる情報量の割合が、日本語に比べて大きいということになる。
ということは、どういうことだろう。
表音文字の言語圏の人たちは、音から情報を読み取る感覚が優れているということにはならないだろうか。
そんなことを考えてみた。