【劇場版考察】ぼくがかんがえたラブライブ!のしょうたい

劇場版について考えていたら、これってラブライブ!という作品の根幹というか正体みたいなものなのでは?
みたいなことに気付きました。という話です。
異論は認めます。

という記事を以前にも書いていたのですが、あまりにごった煮なので書き直してみました。

ラブライブ!の正体

ラブライブ!スクールアイドルムービー。

2015年春に公開されたこの作品を見て、みなさんはどのようなことを感じたでしょうか?

僕は今回の作品を観て、ラブライブ!の正体が見えたような気がしました。

それは、僕がなぜラブライブ!が好きか?という問にも通じるものでした。

もったいぶるのもアレなんで言ってしまいますね。
僕が見たラブライブ!の正体。

それは、『ヒーロー物』というものでした。

『みんな』というテーマ

まず、今回の映画。

『みんな』という言葉の使われ方が非常に印象的でしたよね。

もらった特典にも、『μ’sを応援してくれるみんなへ』なんて書かれていました。
中に書かれているメッセージも、『みんな』へ当てたメッセージでした。

ただ、そんな風に『みんな』という言葉をアピールしていた割に。
劇中での『みんな』という言葉は、ある時点までは、あまり良い使われ方をしていませんでした。

「みんな続けてほしいと思っている」

「みんなの期待に応えたい。いままで、ずっとそうやってきたから」

「みんなそう思っている」

どれも、μ’sを『おしまい』にするかどうかを葛藤する、葛藤させるための言葉です。
まるで、『みんな』というのが重りか何かのような言い回しですよね。

もちろん、それは事実です。
例えば星空凛のSidでは、『みんなからの期待』が重圧になる話がありました。

大事な局面で、自分に周囲の期待がかかっていることを感じて動けなくなってしまう。

今回の話と共通する部分がありますよね。

ラブライブ!世界のルール

ちょっと話がそれるんですが。
ここで、ラブライブ!世界についてよくツッコまれることを考えてみましょう。

とはいえ現実世界に照らし合わせたときにおかしい部分を挙げたらきりがないんですが。
そのなかでもよくあるのが『勝手に商品化してるwww』じゃないでしょうか?
『権利どうなってんだwww』とかもありますね。

あの世界では、特にスクールアイドル自身に許可を取ることなくグッズ類を販売している『アイドルショップ』があります。
あまつさえ、そのことを知ってスクールアイドル自身が喜んでいる姿が描かれたり。
劇場版でも、空港で動画が流されたり、ビルに巨大ポスターが貼られたりしていました。
勝手に。

もちろん、ご都合主義的な世界観なので、考えるだけ無駄という部分はあるでしょう。
ただ、それでも次のことに気付くはずです。

この世界には、権利者というか、権力者という存在が出てこない。

学校の関係者も、担任の先生という身近な存在を除くと出てくるのは理事長だけで、しかもメンバーの家族という内輪ぶり。
校長や教頭などという存在には一切触れられません。

外側の世界にいるのははっちゃけお姉さんくらいですかね?
あくまで現場、担当の人のみで作られています。

でも好き勝手はできない。

というわけで、ラブライブ世界では、権力者は出てこないというルールがあるようです。
しかし、何もかも好き勝手にできるかといえば、もちろんそんなことはありません。

じゃあ、何が障害になっているのでしょうか?

そう、この世界では、すべての障害は『みんなからの期待』で表現されているのです。
やっと話がつながった……。

なかなか面白いですよね。
というのもこれって、僕らの生きてる現実世界とけっこう共通する部分があるような気がしていて。

現実に共通する空気

特に現代は顕著だと思うんですけど。
最近なんとなく、息苦しい空気ってありませんか?

災害のあとのエンタメを不謹慎と言ってみたり、家族を亡くした人がネズミの国に行くことを非難したり。

なんだかわからないけど、常識だとか、空気だとか。

そういうよくわからない、目に見えない、でも確かに存在する、心を縛り付ける価値観というかなんというか。

身動きが取れなくなってしまう、あるいは身動きが取れなくなっていることにも気付けないような。

不安というか、重圧というか、とにかくそういう何か。

それって、『μ’sをおしまいにしてほしくないみんなからの期待』と、同じなんですよね。

空気を読まないという選択

穂乃果もそのよくわからない何かに気を使って、動けなくなってしまっていました。

でも「飛べるよ!」の言葉を聞いて、何も諦めなくていいと気付くことができたわけです。
直後に景色が変わって何事かとなりますが、それは些細な問題で。

あの水たまりは、要するに『分かれ道』ですよね。
片方は、μ’sをおしまいにして、ドームを諦める。
もう片方は、ドーム実現のために、μ’sを続ける。

どちらも選びがたいし、そもそもどっちだって選びたくない。
それは、進行方向に対してほぼ直角に折れ曲がる=遠回りになることから、そうなんじゃないかなと思う僕の妄想ですが。

でもそこで穂乃果は、第三の選択肢の『μ’sはおしまいにする。ドームも諦めない。』を選択しました。

そもそもイコールではない

冷静に考えると、この2つってどっちか片方だけって話じゃないですよね。

あくまでμ’sがいれば実現の確度が上がるってだけで。
いなかったら即お流れ、というわけではない。

でもあの瞬間、それがイコールとみんなが思い込んでしまっていました。
見事なミスリーディングだと思います。

悩みをぶっ飛ばすような存在。

さて、そんなわけで、話が遠回りになりましたが、ラブライブの正体の話です。
もう散々言ってるんですが、要するにこういうことですね。

『クソッタレな現実=みんな』をグーパンチで黙らせて、欲しい未来を全部掴んだ。

これこそが映画の爽快感の源泉であり、ラブライブ!の正体であり、僕がこの作品を好きな理由です。

穂乃果が学校の屋上で、ドームライブも諦めない!と言ったときの、目を見開いた表情。
あれを見た瞬間、大体のラブライバーは、「流れ変わったな」と思ったのではないでしょうか?
あれはもはやヒーローとしての覚醒の瞬間ですよね。

そんな考えのもと、全国からスクールアイドルを集めてライブをする、という話をした瞬間のクール組(うみまきえり)の反応を見ているとなかなか趣深いです。

『時間がない』『大変そう』『そんなのできるわけない』、それがクール組の第一声でした。

でもそんな意見が、『面白そう』『できたらすごいことになる』『楽しそう』というポジティブな意見に塗りつぶされていく。

さらに思い出すと、その日の朝に穂乃果が言っていたことがそのまま答えになっているんですよね。

偶然そうなったわけじゃない。
夢中になれたから。
最高に楽しかったから。

正確な言い回しが思い出せないんですが、そんな感じ。
もう答えは出ていたというか、今までの活動が答えだというか、私たちが答えだ、みたいな。

「行こう! みんなが待ってる!」

そんな強い姿勢で現実を生きることができたらどんなにいいかと思ってしまうんですよね。
そういうわけで、彼女たちは僕にとってのヒーロー、ということになるようです。

Aqoursを知る前にこの話を書いているはずなんですけど、なぜかAqours☆HEROESとか君のこころは輝いてるかい?の話をしているような気分になる不思議。

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