声優ユニットとしてのμ'sが完成したって話。

4thまでのライブと5thライブとで、何かが変わったな、と感じている。

なんというか、4thまでは困難への挑戦感があったと思う。
だが5thだと予定調和というか、タスク消化の感があった。

タスク消化というと言葉は悪すぎるが・・・なんていうのかな・・・それまでが『入れるかあやしいレベルの学校の受験で味わう緊張感』だとするならば、恐らく5thは『中間テストで一位だった人が期末テストで味わうプレッシャー』とでもいうか。

もちろん前回に比べてキャパは増えているが、それも同じ場所で、夏に一度舞台に立ってはっきりとした手応えを得ている状況だと、無事に終わったという達成感と安心感で泣く・・・という雰囲気にはならず、ただただ楽しい時間が終わってしまったという寂しさを感じるのだと思う。

手応えについては、三森さんのブログ(http://ameblo.jp/mimorisuzuko/entry-11918369187.html)にあった話だ。
モンスターとしての自覚を得た、という話。
その自覚というのは多分、アイドルとしての自覚であり、オーラとでも言うべき自信であり、そして劇場版での穂乃果のセリフ、『行こう! みんなが待ってる!』の境地であると思う。

2015年は、5thの後、ライブが少なくなったなと感じている。
もちろんファンミーティングで全10箇所、30公演ほどをこなしてはいるのだけれど。
去年のいろいろなイベントに参加していたのと比べると、少ないと感じる。
決してアニサマ一日目に行けなかった僻みではない。僻んでるけど。

それは別に活動が縮小しているというわけではなくて、ソロ活動が増えてきていることや、一部メンバーの故障も影響する部分で、仕方ないものではある。
・・・というか、むしろファンミーティングほんとによくやれたなあ、って思うべきだし思うけども。

ただ、これ以上、または少なくとも同じレベルのパフォーマンスを求めるのは不幸な結果になるんじゃねーか(年齢とかの問題もある)、という空気を感じているのは僕だけではないはずだ。たぶん。


ラブライブという企画そのものとしても、アニメは正史ではない・・・と、いくら主張したところで、劇場版で一区切り付いたと感じてしまうのは否めない。
また、時系列を追う作品をつくることが難しくなったというのも、厳然たる事実だ。

別設定(ロボットに乗る)とか、もう一度最初からとか、同じメンバーによるその後の話、というのが興醒めになるというのもわかりきった事実だし。
けいおんの後日談を観たいという話も、マックで健康的なメニューを食べたいという話と似たようなものだ。

そこは、廃校を阻止するために立ち上がった、という物語性を重視して、アイドルに対して学生という個性を強烈に付加した代償なのだろうなー、と思う。
(アイドルマスターの方は平気な顔をして歴史を繰り返している。もともと同じ人を何回でも一年間プロデュースできるという、サザエさん時空上等な作品だし)

その辺の、自分で設定した期限に対するけじめというのが劇場版のメタ的な位置づけなわけで。
いろいろな状況を鑑みるに、本当に、いい具合に一段落がついてしまっているのだ。
誰も声高には言わないけれど。


ようやくタイトルに回帰するが、μ'sは完成してしまった。
たぶん唐突に誰かが『ラブライブを終わりにします』と言っても不思議じゃないくらいに。

ただ上記の感想は、あくまで、僕が終わったと感じているからそう思うだけだとは思う。
μ'sという物語を終わったと感じてしまっているから、他のこともそれに引っ張られて、関係有るように見えるから、終わるのにはちょうどよく見えてしまっているだけで。
現在のμ'sクエストなる企画に膝を打っている人も確実にいると思う。
僕は全文を読んですらいない。
飽きてるだけじゃねーかと自分でも思う。

いずれにしても凡俗たる僕の感覚は多くの人に共通するものだと思うので、6thは「何が起きるかを楽しみにする」というよりは、「まだ何ができるのかを確認する」という人が多くなって・・・要するに、贔屓目なしで評価されることになるだろう。

まあ、贔屓目なしで人気を勝ち取ってきた結果が今の状態なのだから、そこはファン歴2年そこそこの新参者が心配するところではないとも思うのだが。