翼をただの飾りにはしない

劇場版ラブライブ!の歌詞。

いいものだ。
いいものなのでなんかこうとりとめのないことを書いてみようと思う。
たぶん人様が見たら気持ち悪いと思うけど。

最初は例によってメロディしか入ってこなかったのだけれど、あるときにふっと歌詞が頭に滑りこんできた。
今を、もっと。もっと!
そんな歌だと思った。
どうやらアニメ二期の最後から直接つながる話のようだし、やっぱり今度こそ終わってしまうのか・・・と思う気持ちも強い。

でももはやアニメ二期の11話を乗り越えたμ'sに怖いものはなく、いまできることに真摯に、全力でぶつかっていく・・・みたいな。
今できることを全力で、というのはいろんなところで見かけるけど、やっぱり普遍的なメッセージなんだろうなと感じる。
それはさておき、「ほしくないのさ」には男の子感を感じる。

ラブライブの楽曲は視点が男の子してるものがちょくちょく出てきて、おっ? となる。
そしてそれは、ここぞという大事な楽曲だ。

一番最初の楽曲、僕らのLIVE 君とのLIFE。

アニメ版一期オープニング、僕らは今のなかで。

アニメ版二期オープニング、それは僕たちの奇跡。

二年生組の中では、園田は自身を男役としてとらえているというのはありそうだ。
だけど別に、男と女という区別をするために『僕』と歌っているわけではないとは思う。
むしろ、無邪気というか、無垢というか、そういう感じを出すための『僕』な気はする。
一番最初の楽曲とか、オープニングというのは、その作品を印象づけるもののはずだ。 ということは、ある程度は万人受けを狙うための意図があるはず。
ならば、僕という一人称には、万人受けという効果がある・・・のか?

逆に考えてみる。 これが『私』とか『俺』とかだったら。 私はともかく、俺は無茶だった。想像がつかない。
しかし私というのも、女の子しすぎていて男にはとっつきにくそうに感じる。

やはり僕というのは無難なのか。 性差を意識することの少ない、『何者でもない』という記号としての一人称、という意味があるのかな。
逆に、一人称という以外の意味がないとも言えるか。
俺や私には、一人称という以上に男や女としての意味が出てきてしまうのかもしれない。
あるいは子供を意識させることから、可能性とか成長といった印象を感じさせたいのかもしれない。

ほしくないのさからだいぶ遠ざかった。
でも結局そういうことなんだろう。
一人称という以上の意味を持たせないようにしてる、みたいな。
で、それをある程度以上は女性としての記号をまとった女の子が歌うから、逆に男の子っぽさを感じてしまうのだろう。

何の話だっけこれ。

劇場版本当に楽しみです。

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